経政(Tsunemasa)


能「経政つねまさ(経正)」から、平経正です。



あらすじ

京都・仁和寺にんなじ御室御所に仕える行慶僧都ぎょうけいそうずは、法親王の命により一の谷の合戦で討ち死にした平経正を弔うこととなりました。

そこで琵琶の名手として知られた経政が愛用した青山せいざんという銘の琵琶を仏前に据え、管弦講を執り行います。

経政の成仏を祈る音楽が響き夜半を過ぎた頃、燈火のなかに人影がほのかに見えてきました。

不思議に思った行慶がどういう方が現れたのかと問うと、
「経政の幽霊である、お弔いの有難さに現れたのだ」と告げ、人影は陽炎のように消えて声ばかり残ります。

なお行慶が消え残る声と言葉を交わすと、亡霊は、花鳥風月を愛で、詩歌管弦に親しんだ在りし日を懐かしみます。

経政は手向けられた青山を奏で、夜遊に舞います。

しかし敵に対する憤りの心が起こった経政は、修羅道に堕ちて戦いに苦しむ姿を見せます。
その身を恥ずかしく思って見られまいと燈火を吹き消し、消えていくのでした。





平経正


能の表記では「経政」となりますが、人物名は経正です。(流派によって違います)
演目は平家物語を基として作られています。

平経正は平家一門の武将で、平清盛の弟・経盛の長男。
また、能「敦盛」の主役である平敦盛の兄にあたる人物です。

平家一門の中でも俊才として知られ、歌人として活躍しました。

また平安貴族が愛用した楽器の琵琶の名手として名を挙げ、和歌もよく詠んだそうであり、藤原俊成や仁和寺五世門跡覚性法親王かくしょうほっしんのうといった文化人と親交が深かったそうです。

寿永2年の平家都落ちの際に仁和寺に駆けつけ、
拝領の琵琶『青山』を仁和寺五世門跡覚性法親王に返上し和歌を残した逸話が『平家物語』に記されています。

寿永3年、一ノ谷の戦いにて討ち取られ生涯を閉じます。

⇓ 都落ちの場面や幼少期を過ごした仁和寺、経正の詠んだ歌などについてこちらのページで詳しく紹介して下さっています。

平家物語・義経伝説の史跡を巡る






仁和寺


演目の舞台は有名な寺院、京都の仁和寺です。

平経正は元服するまでの間、幼少期を仁和寺門跡の覚性法親王に仕えて過ごしました。


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仁和寺HP
https://ninnaji.jp/

仁和寺は仁和4年(888)に創建された寺院であり、現在は真言宗御室派の総本山です。
開祖は宇多天皇。
皇室とゆかりの深い寺で、出家後の宇多法皇が住んでいたことから、「御室御所おむろごしょ」と称されていたそうです。

本尊には阿弥陀如来が祀られています。

春には桜、秋には紅葉の名所としても有名だそうです。






琵琶「青山」について


平経正が愛用していたとされる琵琶、「青山せいざん」。

藤原貞敏(807~867)が唐から持ち帰ったと言われる琵琶の内の一つが青山です。

琵琶三名器と呼ばれ、弦上げんじょう」「青山せいざん」「獅子丸ししまるの3つがあります。

仁和寺には平経正と、この青山にまつわる記録も残っているそうです。

平家物語にも青山にまつわる話でこの2つがあります。

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経正が17歳の頃、宇佐八幡宮(大分県)の拝殿で秘曲を奏した時は、
あまりの素晴しさに普段音楽を聴きなれない役人までもが涙したと伝えられる。(巻七「青山之沙汰」)

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木曽義仲追討のため北国へ赴く途中、竹生島を詣でた経正。
竹生島に上陸した経正は弁財天の御前で経を詠みます。
そこに奉納してあった琵琶を弾いたところ、
竹生島の明神が感応されて、経正の袖に白龍となり現われたといいます。(巻七「竹生島詣」)


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の見どころ

経政は二番目物、「修羅物しゅらもの」です。

修羅物ではこれまでにも「巴」「屋島」を描いてきましたが、この二つとはまた違った雰囲気の演目です。

修羅能は主人公は武士の霊として現れ、
自分の最期の場面や死後の苦しみを見せ、仏法によって救済される様子を描く能です。
(武士は殺生を繰り返した罪で、死後は戦いにあけくれる「修羅道」へ堕ち、苦しみ続けると考えられていた。)

屋島でも解説したかもしれませんが、修羅物の中でも「かち修羅」と「まけ修羅」とがあります。

勝修羅は『田村』『箙』『屋島』の3演目

負修羅は10演目以上あり、『巴』と『経政』はこちらに分類されます。

経政は能のあらすじを見て頂くと分かると思いますが、
修羅道や戦いの場面は最後のみでほとんど語らず、在りし日に琵琶を奏でる様子を語っている場面が多く見られます。

武士の出で立ちですが勇猛な雰囲気ではなく、優美な雰囲気が始終漂う演目でした。

最後の場面は、雰囲気が一転して修羅道での苦しみが描かれます。

経正のキリ(最後の部分)の仕舞を習い始めの頃に舞いましたが、
それはそれは難しかったのをよく覚えています。

修羅物は武士という事もありとても迫力があるので、囃子や装束を着けない状態の仕舞でも上手な方の舞はとても見応えがあります。

私はシテのセリフの場面を武士らしくハキハキ謡うのだけでも精一杯でした(笑)

型は型で特殊な動作が多くなんと言っても動きも早いです。
能で見てると遅く感じますが、舞ってみると凄く早いですし、仕舞なのでたった5分程度ですがずっと気を張ってるのが大変だったなあと今でも思い出します。

女性物はゆっくりなので次の動きを考えてる暇があるのですが、
こういった修羅物は次の動きを考える間がなくて、覚えるまでにとても苦労しました。

まだ20過ぎた頃だったので、この経政の内容も難しくて良く分からずに舞っていました。
今思うともっとしっかり内容にも向き合えばもう少し良い舞いが舞えたかもしれないなあと感じます。





装束について

経正は琵琶を奏でる貴公子と出てくるので、優美で爽やかな作品を意識して描きました。

頭には梨打烏帽子という被り物をしています。
平家なので右折りです。上から白い鉢巻を巻いています。

能面は童子を掛ける事も多いそうですが、「十六じゅうろく」という面を参考に描いています。
一の谷の合戦において十六歳で打たれた平敦盛を現わした面だそうです。
女性面のような顔立ちの物など、様々ありました。

内側に着ている厚板は紗綾型と唐花など、そして経正が愛用した琵琶が描かれています。

上には狩衣ではなく長絹を纏っており、
扇面に牡丹や鉄線花など華やかな模様を加えました。
狩衣と違って薄手なので儚さが出ていると思います。

大口袴は本当は白に近い色なのですが調整の関係で少し黄色めに描いてあります。こちらは七宝柄。

そして扇ですが、負修羅には「波濤日輪図はとうにちりんず」という、波濤と入日が描かれた扇を使用するそうです。

背景には最初は竹生島に因んで白い龍を描こうと考えたのですが、スペースが足りないので断念。
雪輪型の和柄や風情を出すために月、流水や紅葉を描きました。

演目の中では秋の情景は語られませんが、
秋の演目なので意識しながら制作しました。
ここ最近強い色を使いがちでしたが、今回は最初の頃の柔らかい雰囲気が出せたと思います。

弟である「敦盛」や、青山と並ぶ琵琶の名器「弦上」この2演目もいずれ描きたいです。



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