能「春日龍神」よりシテの龍神です。
前シテ 宮守の翁 (春日神の眷属・時風秀行(ときふうひでゆき)の化身)
後シテ 龍神
ワキ 明恵上人(みょうえしょうにん)
ワキツレ 従僧2人
季節:春
場所:大和の国春日大社(奈良県奈良市春日野町)
分類:四五番目物、略脇能
あらすじ
京都栂尾に庵を結ぶ明恵上人は、入唐渡天(中国、インドに渡り、仏跡を巡ること)を志し、暇乞いのため奈良の春日大社に参詣します。
そこで一人の神官と思われる老人に出逢います。
老人は明恵に、日本を去ることは神慮に背くことになると言い、引き止めます。
明恵が仏跡を拝むためだから、神慮に背くはずがないと反論しますが、今や仏も入滅されて時が経ち、天竺や唐に行くのも御利益があまりないことで、今や春日山が霊鷲山と見なされ、天台山を擬した比叡山があり、五台山になぞらえられる吉野金峰山もある、というように日本に仏跡と見なされる場所がたくさんあって、仏教も広まっている、と他国に行く必要のないことを強調します。
その言葉を受けて旅の中止を決意した明恵へ、神職は「三笠山に釈尊一生涯の物語を映し出そう」と告げると、自分こそ春日神の眷属・時風秀行の化身だと明かし、姿を消してしまいます。
やがて春日野の野山はあたり一面、金色の輝く世界となりました。
草も木も仏に変わる不思議な光景が現れたのです。そこに龍神が姿を見せました。
釈尊の説法を聞こうとやってきた八大龍王が、眷属を引き連れて法華の会座に座りました。
やがて龍女が舞を舞い、三笠山では釈尊の一生が映じられ、明恵も入唐渡天をすっかり思いとどまりました。
「どれだけ尋ねようとも、この上はないのである」そう言って龍女が南へ去ると、龍神は猿沢の池の波を蹴立てて、千丈の大蛇となり天地一面に広がり、消え失せるのでした。
明恵上人
鎌倉時代の僧で、承安三年(一一七三)に和歌山県で産まれました。
治承4年(1180年)、八歳の時に両親を亡くし、翌年高雄山神護寺の文覚の弟子で叔父の上覚に師事し、文治4年(1188年)に出家します。
東大寺で華厳宗や禅を学び、勧修寺の興然から密教の伝授を受けました。
23歳で俗縁を絶って栖原白上の峯に入り、さらに東白上峯に草庵をたてて修養に励みましたが、そこでの修行はたいへん厳しいもので、人間を辞して少しでも如来の跡を踏まんと思い、26歳の時に右の外耳を剃刀で自ら削ぎ落としています。
この「右耳切断」は、剃髪や僧衣を着る意味が薄れている(僧の間で当たり前になり、本来の意味が薄れてしまっている)のであれば、
自分の姿を変え、俗世間から距離を置いて仏の教えを求めていこうという考えからの行動だったそうです。
耳を切断する前には、
目をくりぬいてしまったらお経が読めなくなってしまう。
鼻を削いでしまったら、鼻汁が垂れてお経を汚してしまう。
手を無くしてしまえば印を結べなくなってしまうと考え、明恵上人は「耳」ならいいだろうと考えました。
遁世僧となった明恵は、建永元年(1206年)
後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開山し、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行にはげみ、戒律を重んじて顕密諸宗の復興に尽力します。
そして病気により享年60歳で亡くなりました。
生涯宗派に捉われず釈迦の教えを究めようと厳しい修行を重ね、優れた弟子を育て戦災で身寄りを失った女性の救済なども行い、本来あるべき僧の姿を求め続けた僧だったそうです。
明恵上人については大変記述が多く、
ここでは紹介しきれないので↓のページも参考になさってみて下さい。
Wikipedia 明恵上人
舞台の春日の里(春日大社)と龍神について
題名にもなっている「春日龍神」ですが、春日大社=龍神信仰のイメージを私は持っておらず(^-^;、調べてみたところ龍神に関する社がありました。
春日大社は
武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神(天児屋根命の妻。天照大御神であるとの説がある。)
の4柱の神様を本殿でお祀りしています。
その他にも摂社・末社として62社の神々がお祀りされており、その中で2つ龍神に関する社がありました。
一つ目に「龍王社」があります。
春日大社には、春日山(御蓋山)を水源として平城京に流れ込む川があるため、龍神信仰の神々が今も、本殿以外の摂社や末社にまつられているとありました。
この社では龍王大神様をお祀りされています。
社殿は平成30年に140年ぶりに再建されたものだそうで、こちらについてはあまり多くの記述を見つけられませんでしたが、昔はここを拠点として春日大社では龍神信仰をされていたようです。
もう一つが「金龍神社」で、若宮十五社巡りの中に入っています。
祭神は金龍大神様です。後醍醐天皇ゆかりのお宮と伝えられています。
歴史としては鎌倉時代の終わり、後醍醐天皇により討幕が図られた「元弘の変」において後醍醐天皇側が敗走することになった際、この地で鏡を奉納した上で天下の安定を願って祈りを捧げたことが神社の創建の由来であるとされているそうです。
↓更に詳しく見たい方はこちらのページがおすすめです
春日大社・御朱印
⇒ TOPページ左のコンテンツ一覧の「春日大社・金龍神社 | 若宮十五社巡り【第14番納札所】」に神社の歴史が詳しく掲載して下さっています。
八大龍王
能の終盤で登場される「八大龍王」とは、この竜族の八王の事です。
難陀龍王 【なんだりゅうおう】
跋難陀龍王 【ばつなんだりゅうおう】
娑伽羅龍王 【しゃがらりゅうおう】
和修吉龍王 【わしゅきつりゅうおう】
徳叉迦龍王 【とくしゃかりゅうおう】
阿那婆達多龍王 【あなばだったりゅうおう】
摩那斯龍王 【まなしりゅうおう】
優鉢羅龍王 【うはつらりゅうおう】
この竜族は天龍八部衆と呼ばれ、仏法を守護する神々です。
“仏教が流布する以前の古代インドの鬼神、戦闘神、音楽神、動物神などが仏教に帰依したもの”
“法華経(序品)に登場する。 霊鷲山にて十六羅漢を始め、諸天、諸菩薩と共に、水中の主である八大竜王も幾千万億の眷属の竜達とともに釈迦の教えに耳を傾けた”とありました。
●八大龍王が祀られている有名な神社
神龍八大龍王神社【熊本】
和泉葛城山 八大竜王神社【大阪】
都久夫須麻神社【滋賀】
永の内八大龍王水神社【宮崎】
能について
この春日龍神は、話としては明恵上人が入唐渡天(中国、インドに渡り、仏跡を巡ること)を志し、それを神が引きとめるという分かりやすいお話です。
明恵上人は春日社を厚く信奉したことも知られています。
入唐渡天を春日明神が制止したとするこの能の話の典拠は、『古今著聞集』等の説話に見られるそうです。
前半の宮守の老人は明恵上人の入唐を思い止まらせた事を確認すると、
実は自分は春日明神の神託を伝えに来た眷属で、「時風秀行」だと名乗って去ります。
その後、春日野は金色に輝きはじめ、草も木も仏に変わる不思議な光景が現れます。
そこに龍神達が姿を現わし、龍女も舞を舞います。
シテ役の龍神と地謡が龍王の名前を掛け合う場面も迫力がありますし、龍神の舞も見どころです。
小書(特殊な演出バージョン)では、龍神揃という沢山の龍神や龍女が登場する演出や白頭のシテの演出もあります。滅多に演じられませんが一度見てみたいと感じます。
装束について
頭には”龍戴”という龍神を現した被り物を付けています
赤頭、面は黒髭です。これも龍神を現した面で、以前にも竹生島や和布刈の龍神で登場しています
厚板(中の着物)には雷紋や輪宝紋、瑞雲、龍などが描かれています。その上に着ている法被には名称は分かりませんが、瑞雲を繋いだような柄と同じく輪宝が描かれています。
袴は鱗紋の地に龍と三つ巴の瑞雲です。どれも龍に関する柄が多いと思います。
龍神は橙色や朱色に近い強い色が地の色、基調の色になっている装束が多いと思います。
今回は、厚板は暗めの紺、法被も暗めの紫、そして袴は黒を地の色として描いてみました。
抑えた中でも重厚感のある豪華さ、派手さが出たように感じています。
法被、袴共にほぼ「黒に金」の出で立ちですが、袴の方の金は抑えめに少し褪せた色を目指し、袴と雰囲気が被らないように配慮しました。
また、龍戴も以前の龍神の作品のバージョンからグレードアップしているので是非比べて見て下さい。
背景には八大龍王から、八体の龍を描いています。
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