能「弱法師」から、シテの俊徳丸を描きました。

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弱法師のあらすじは、
河内国高安(現在の大阪府八尾市付近)に住む高安通俊は、
他人の讒言を信じて、実の子である俊徳丸を家から追い出してしまった事を悔やんでいました。
通俊は、俊徳丸の現世と来世の安楽を願い、春の天王寺(大阪の四天王寺)で七日間の施行を営みます。
その最終日、弱法師と呼ばれる盲目の若い乞食が、施行の場に現れました。実はこの弱法師は俊徳丸だったのです。
弱法師が施行の列に加わると、梅の花びらが袖に散りかかります。
花の香を愛でる弱法師を見て、通俊は花も施行の一つだと言いました。
通俊は、弱法師が我が子の俊徳丸であると気づきますが、人目をはばかり、夜に打ち明けようと考えます。
施しを受けた弱法師は、仏の慈悲を讃え、天王寺縁起を語り、乞われるままに日想観を拝みます。
心に焼きついた須麿明石難波の浦の景色を今も見えるかのように、ありありと心に描きつつ、彷徨い歩くのですが、参詣の人々にぶつかり、ふと現実に戻され、盲目の悲しさに打ちのめされます。
夜が更け人が静まると通俊は、弱法師の俊徳丸に自分が父である事を明かします。
俊徳丸は今の自分の姿を恥じて逃げますが、通俊は追いついて手を取り、高安の里に連れ帰りました。
「俊徳丸伝説」(高安長者伝説)という伝承を基に作られた能です。
能の弱法師は親に捨てられた悲しみによって盲目の身となってしまいましたが、
伝承のお話では継母の呪いによって失明して盲目となったようです。
この弱法師も能楽だけではなく、歌舞伎や人形浄瑠璃でも演目があります。
また、「弱法師」は名前ではなく俊徳丸のあだ名で、よろよろとした法師、乞食坊主など僧侶を嘲る意味が含まれているそうです。
父の通俊は地元の有力者だったので、俊徳丸は名家の息子になりますが、母(昔はツレで出演していたそう)の讒言で乞食にまで身分を落としてしまいます。
掘り下げるほど悲しいお話ですが、俊徳丸の心の純粋さ、豊かさが謡の中で表現されています。
特に、袖に梅の花びらが舞い落ちてきた時に花の香りを愛でる場面や
四天王寺での日想観の場面では難波の美しい景色をまるで目で見えているかのように語る様子が素敵です。
場所は摂津国・四天王寺(現在の大阪府大阪市天王寺区)です。

四天王寺は山号は荒陵山、和宗の総本山です。
推古天皇元年(593)に聖徳太子が建立されたという日本最古の官寺とのことです。
何回も戦火に巻き込まれ焼失と再建を繰り返しているそうですが、とても歴史あるお寺です。
大阪に行ったことがあるのに弱法師の事で調べるまで知りませんでした(;´・ω・)。。
和宗も聞きなれないので調べてみますと、この四天王寺独自の宗派であるらしく、
元々は天台宗だったそうですが、聖徳太子の「十七条の憲法」の有名な第一条「和をもって貴しとなす」からとって「和宗」と称しており、宗派関係なく万人を受け入れるという精神から基づいているようです。
本尊は救世観世音菩薩(救世=人々を世の苦しみから救うこと)様です。
四天王寺では毎年春分の日と秋分の日に、能の中で出てくる「日想観」という伝統行事が執り行われています。
昔の四天王寺の西側には海が広がり、石鳥居が古来より極楽浄土の東門にあたると信じられていたようで、石鳥居の中心に沈む夕日を拝んで極楽浄土を観想するそうです。
彼岸の頃のお話なので時期的に少し遅れてしまいましたが、
先日コロナの関係でずっと行けずにいた謡の会へ2年ぶりに参加してきました。
弱法師が演目の中に入っており、どんなお話だったかなと調べるうちに描いてみたくなり、描かせていただきました。
今回描いた俊徳丸の背景は、日想観で見える景色と、難波の海を合わせたものです。
明るくなってしまうかなとおもいましたが、梅の花も入れてあります。
面は「弱法師」という面で、この能にしか使用されません。
調べてみると良くわかるのですが、とても悲壮観(苦悶の表情?)に満ち溢れた表情の面と、悲しさの中でもどことなく微笑んでいるように見える面があり、どちらを描くかとても悩みました。
おそらく眉間の皺の角度や多さの具合だと思われますが、本当に悲しそうで見ているだけで悲しくなります。
話の中での俊徳丸の感情は悲しみだけではないように私は感じたので、悲しさの中にも穏やかさが見える表情になるよう心掛けました。
最後の場面ですが、俊徳丸は父に手を引かれて一緒に帰っていき、一見ハッピーエンドに思いました。
が、俊徳丸が自分の息子だと分かっても人目を気にして日が暮れてから名乗り出た父の様子などから、h本当は幸せな終わり方ではないという説もあるようです。
確かに、本当に気にかけていた息子に会えて感動したのならば人目も気にせず名乗り出ても良いような気もします。
俊徳丸は家に戻ってから、父には受け入れてもらえても他の家族や家来に受け入れてもらうのは時代柄中々難しかったのかもしれません。
現代では盲目の人への差別は昔ほどは無く、ここまでの扱いは受けなくなっていると思いますが、
色々と昔の日本の闇を考えさせられました。
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